も登場します。 しかし、この流行とともに花火が原因による火災が多発したことから、幕府 より江戸市中での花火禁止に関する「町触れ」が出され、花火を行ってよい場所 も大川端(隅田川河口付近)での船上花火に制限されることとなりましたが、 花火の流行は止まらず、以後このようなお触れが毎年出される結果となります。 当時の隅田川では、特に繁華街がある河口部で花火が行われていましたが、 17世紀の両国橋架橋により両国橋周辺が花火の名所となりました。 18世紀には船遊びで花火を楽しむ文化が定着し、19世紀には花火の技術も発 達し、川開きの行事として数々の浮世絵にも登場することとなります。 が打揚花火の掛け声の定番となっています。 とから、夏の花火大会のルーツといえます。 現在も伝統行事として続いているものも多く、これらの地域では祭礼のときに、 火薬の知識のある地元の人たちにより「立火 (ロケット式花火)など様々な花火がつくられ奉納されてきました。 特に、愛知県三河地区は徳川家康のお膝元で、直属の火薬製造所があり鉄 砲隊の本拠地であったことから花火が盛んな土地柄で、現在でもおもちゃ花 」 を博しました。 花火の流行は江戸庶民の遊びにも広がり、市中での「花火売り」や「花火師」このころ活躍した花火師が、有名な鍵屋弥兵衛や玉屋市郎兵衛で、今でも屋号この「両国川開き花火」は19世紀に大きく発展し、江戸の年中行事となったこ花火を行ったり、楽しんだりする風習は、江戸だけではなく全国各地にあり、東都両国夕涼之図(資料提供:両国花火資料館) たちび」(噴出花火)や「流星りゅうせいまたは龍勢りゅうせい6
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